
去る8月9日朝、うちのばあちゃんが死んだ。まぁ、明治最後の年に生まれ、平成11年まで生きたのだから大往生ってことでしょうか。
僕が小さい時は両親が共働きだったため、よくばあちゃんと一緒にいた。「おばあちゃん子」だったわけです。その時はばあちゃん=いい人、というイメージ。小学校高学年か中学生の頃にはいわゆる「嫁と姑」の対立というものに気付き、「家族なのにどうして仲良く出来ないの!」と何度もイライラしたことがありました。単に意見の対立での言い争いではなく(話合って解決する、あるいは翌日には元に戻っているとかではなく)ある種の深い憎しみ―瞬間的であっても決定的な憎しみ―のようなものを感じて、それがとても嫌で恐かったのだと思う。それ以降のばあちゃんのイメージといえば、「神秘と幻想の世界の人」。
大学生になっての最初の夏休み、僕はボブ・マーリーのTシャツ(今となってはちょっと恥ずかしい)を着て実家に帰った。それを見てばあちゃんが一言、「日蓮上人かい?」。思えばあの時すでにばあちゃんはこれから待ち受けている「一人神秘と幻想の世界」の入り口に立っていたのだと思う。
まず最初に腰が曲がりだす。最終的には90度以上曲がっていたのではないかと思う(当然、前に)。次に聴力の著しい低下。それに伴う判断力の低下。言葉尻が不明瞭になってくる。本来一人で出来ることが誰かに手伝ってもらわないと出来ないようになってくる。トイレで用をたすとかお風呂に入るとかドアを開けるとか。結局そういった老人介護施設であずかってもらうことにした。
結局、超ボンクラな孫である僕は月に一度行くか行かないかという薄情なペースでしかその施設を訪れなかった。「じゃぁ、また今度くるね。」「うん、またね。」といった別れの挨拶が成立しないのが嫌だったのだ。ばあちゃんは家に帰りたかったのだ。もしくは家族の誰かと常に一緒にいたかったのだ。自分が家に帰れないと知って故意に別れの言葉が聞こえないふりをしていたのか、ほんとうに聞こえていなかったのかはわからないけど。
生前にその人がみせた何気ない仕種、行動や発言。それらは遺体を目の当たりにするよりも感動的で胸に突き刺さる場合がある。その日車椅子に座ったばあちゃんは「リハビリ・ルーム」の中央のテーブルに一人ポツンといた。窓の向こうに立山連峰がとてもきれいに見えた。テーブルには箸と豆の入った皿と空の皿。これを見た時は本当に泣いてしまった。箸を使って豆を空の皿に五十粒移す、というプログラム。何時間前からこうしているのだろうと思った。僕が来てから漸く豆を移そうとするばあちゃん。終わってから数えてみろというので数えてみると全然数が合ってない(笑)。最後には笑いに持っていくナイスな、可愛らしい「ボケ」でした。それにしてもその「リハビリ・ルーム」にはCDが何枚かあって、なぜかクィーンのベスト盤があったのは謎だ。
その施設でばあちゃんはよく「ぬり絵」をしていた。年に数回家に帰ってくる時はたまった「作品」を一度に見せてくれた。実物をお見せ出来ないのが残念だが、ある日突然ばあちゃんが自分の「作品」を部屋の壁に糊で貼り始めた。たかだかA4ぐらいの大きさの紙四枚貼るのに糊一袋を使い切って。糊を何度も買いにいくはめになった。遂に我が家にも念願のブラック・アーク・スタジオが(笑)。僕も喜んでばあちゃんと一緒に糊を塗りまくったんですけど。
さて、ここまで読んで下さった方、サンキュー。「明治生まれ」のばあちゃんと「音楽」というか「音」を考えた場合、それは民謡や演歌などではなく、補聴器。あまりにも耳が遠く、コミュニケーションが成立しない。こりゃ、マズイと補聴器を購入したのは良かったがユーザーはボケた年寄り、使い方が全くわからない。なんだかピュウ、ピュウ、キュイーンと奇妙な音が聞こえてくる。ばあちゃんの部屋に行ってみるとコタツの上にはハウリングしている補聴器が! しかもテレビはフル・ヴォリューム! 黙って新聞を見つめるばあちゃん。ある空間を創り出していたのは確か。意外と「音響派」だったのかもしれません。
最後に。ばあちゃんの名前は「タマキ」という。僕が結婚して女の子が生まれたら、その子の名前は「たまき」にしたい。緒川たまきという名前の人がいてくれてなんだか嬉しい。あ、もし素敵なフランス人女性と結婚して女の子が生まれた場合はもちろん「ペネロープ」にするつもりだす(←バカ)。
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